放置していてすみません。
ブログ再開しようと思います。
過去のちょっとした投稿や長文も含めていくつかだけ再公開しました。
牧場通信
バンド「atomicfarm」のブログです。
2020年3月14日土曜日
2015年12月21日月曜日
原子力牧場の世界 来年発売♪
みなさまこんにちは!
来年の1月20日、CDをリリースすることが決定いたしました♪
わたくしたちが最初につくった 原子力牧場Ⅰ、Ⅱ、というそれぞれの自主制作の音源数曲と、新曲等を混ぜて構成したアルバムになります。
宜しければ是非チェックしてみてくださいね♪
全曲トレイラーはこちら♪
https://www.youtube.com/watch?v=cNm5ZvTVUJo
ディスクユニオンの予約で、未発表曲3曲いりCD-R,
全国のタワレコで予約していただくと、缶バッジがつきます♪
是非宜しくお願い致します♪
「原子力牧場の世界」発売に伴うライブがだんだんときまってきております。
現時点で決定済みのものをこちらに公開したいと思います♪
見に来ていただけそうな日時がございましたら、ぜひチェックしてみてくださいね!
♪1月17日(日)静岡 騒弦 THE BOP企画
♪1月23日(土)東京 新宿JAM シスターポール&atomicfarm合同レコ発
♪1月24日(日)静岡 マキタさんとミっちゃんトコ
♪2月6日(土)静岡 タワレコインストアミニライブ&サイン会
♪2月13日(土)静岡 騒弦 atomicfarm企画 シスターポール&atomicfarm合同レコ発
♪2月14日(日)東京 渋谷HMVrecord shop シスターポール&atomicfarm合同インストアミニライブ&サイン会
♪2月20日(土)大阪 難波Mele ライブ
♪2月21日(日)京都 夜想 狂人企画・シスターポール&atomicfarmレコ発ライブ
今のところ上記のようなスケジュールとなっております!
お会いできること 楽しみにしております★
来年の1月20日、CDをリリースすることが決定いたしました♪
わたくしたちが最初につくった 原子力牧場Ⅰ、Ⅱ、というそれぞれの自主制作の音源数曲と、新曲等を混ぜて構成したアルバムになります。
宜しければ是非チェックしてみてくださいね♪
全曲トレイラーはこちら♪
https://www.youtube.com/watch?v=cNm5ZvTVUJo
ディスクユニオンの予約で、未発表曲3曲いりCD-R,
全国のタワレコで予約していただくと、缶バッジがつきます♪
是非宜しくお願い致します♪
「原子力牧場の世界」発売に伴うライブがだんだんときまってきております。
現時点で決定済みのものをこちらに公開したいと思います♪
見に来ていただけそうな日時がございましたら、ぜひチェックしてみてくださいね!
♪1月17日(日)静岡 騒弦 THE BOP企画
♪1月23日(土)東京 新宿JAM シスターポール&atomicfarm合同レコ発
♪1月24日(日)静岡 マキタさんとミっちゃんトコ
♪2月6日(土)静岡 タワレコインストアミニライブ&サイン会
♪2月13日(土)静岡 騒弦 atomicfarm企画 シスターポール&atomicfarm合同レコ発
♪2月14日(日)東京 渋谷HMVrecord shop シスターポール&atomicfarm合同インストアミニライブ&サイン会
♪2月20日(土)大阪 難波Mele ライブ
♪2月21日(日)京都 夜想 狂人企画・シスターポール&atomicfarmレコ発ライブ
今のところ上記のようなスケジュールとなっております!
お会いできること 楽しみにしております★
2015年11月5日木曜日
先日はありがとうございました!/新曲 空気試験
先日は新宿JAM Girls Harou beatレコ発
ありがとうございました!
共演するバンドが、知っているバンドも初めて見るバンドも含めて
素晴らしすぎて、ものすごくたくさんの刺激やいろいろをもらいました。
バンドも続いていると色んな事があって、おわってしまうバンドもありますが、
2010年に活動しはじめてから
せっせと曲を作っていたら
気がつくと5年たっていて、
未だ続けることが出来ていて、また、
聴いてくれたり、ライブをさせてもらう環境があることを
ほんとうにうれしくおもいます。
(共演した鮫肌尻子さんが、解散してしまうバンドの歌をうたっておられたのですが
そのバンドへの愛とか、さまざまが沢山感じられて、すごくじんわりしました。)
Girls Harou beat!Vol1を早速聴いたのですが
前半、シンプルでとても可愛らしかったりキャッチーだったり
ストレートなガールズロックな楽曲たちで始まり
後半~にかけて、だんだんと個性的な楽曲等
ちょっぴり雰囲気が変わっていくのが聴いていてとても楽しかったです。
僕たちの楽曲は「空気試験」という曲を出させていただいたのですが
後半の方に入っていて、
自分で言うのもあれなんですが。、。。コンピの中で聴くと全然またイメージが違って、驚きました。
夏ごろ録音して、数か月たって久しぶりに聴いたら
けっこう、明るい、サマーな感じをイメージして
録音したりしたのですが、、
色々録音中の、大変なこととかを思い出したり、とかもあると思うのですが、切なくなりました。
ほんとうに頑張って作ったので 聴いていただけたらとても幸いです。
CDそのもの、軒並みすばらしくて、ほんとうにすてきなコンピですので、
もしよければ是非聴いてみてくださいね!
空気試験も、気にいっていただけたらとてもうれしいです。
それと、さらりっとした発表になりますが、、、
ぼくたちはいままで、「原子力牧場 英名(?)atomicfarm」てな感じで
活動させていただいてきておりました。
とはいえatomicfarmを使う機会は
HPアドレスやメール、ツイッターやyoutubeくらいなものでしたが・・・
実は来年、2016年にCDを新しく出すことになり
それに伴い、バンド名をatomicfarmに統一させて頂きます。
また詳しいことを、追ってお知らせしていけたらと思っております。
それでは また!
ありがとうございました!
共演するバンドが、知っているバンドも初めて見るバンドも含めて
素晴らしすぎて、ものすごくたくさんの刺激やいろいろをもらいました。
バンドも続いていると色んな事があって、おわってしまうバンドもありますが、
2010年に活動しはじめてから
せっせと曲を作っていたら
気がつくと5年たっていて、
未だ続けることが出来ていて、また、
聴いてくれたり、ライブをさせてもらう環境があることを
ほんとうにうれしくおもいます。
そのバンドへの愛とか、さまざまが沢山感じられて、すごくじんわりしました。)
Girls Harou beat!Vol1を早速聴いたのですが
前半、シンプルでとても可愛らしかったりキャッチーだったり
ストレートなガールズロックな楽曲たちで始まり
後半~にかけて、だんだんと個性的な楽曲等
ちょっぴり雰囲気が変わっていくのが聴いていてとても楽しかったです。
僕たちの楽曲は「空気試験」という曲を出させていただいたのですが
後半の方に入っていて、
自分で言うのもあれなんですが。、。。コンピの中で聴くと全然またイメージが違って、驚きました。
夏ごろ録音して、数か月たって久しぶりに聴いたら
けっこう、明るい、サマーな感じをイメージして
録音したりしたのですが、、
色々録音中の、大変なこととかを思い出したり、とかもあると思うのですが、切なくなりました。
ほんとうに頑張って作ったので 聴いていただけたらとても幸いです。
CDそのもの、軒並みすばらしくて、ほんとうにすてきなコンピですので、
もしよければ是非聴いてみてくださいね!
空気試験も、気にいっていただけたらとてもうれしいです。
それと、さらりっとした発表になりますが、、、
ぼくたちはいままで、「原子力牧場 英名(?)atomicfarm」てな感じで
活動させていただいてきておりました。
とはいえatomicfarmを使う機会は
HPアドレスやメール、ツイッターやyoutubeくらいなものでしたが・・・
実は来年、2016年にCDを新しく出すことになり
それに伴い、バンド名をatomicfarmに統一させて頂きます。
また詳しいことを、追ってお知らせしていけたらと思っております。
それでは また!
2015年8月14日金曜日
近所は夏休みまっさいちゅう
気がつくとすっかり真夏、鏡を眺めると自分の肌がちょっと焼けてきているのがわかります。
僕の住んでいるところはベイビーちゃんとかキッズちゃんたちが沢山いる地域でにぎやかですから、家に居る間夜以外はやたらといつもいろんな声がしてきます。
目の前の道路で遊びまわってるんですねえ~
今日は、台車のようなものをガラガラと走らせる音がず~っとしておりました。
遠くからきこえてくる音はだんだんと「うるさいぞ!」と言いたくなるほど近づいてきて、まただんだんと遠くへ消えてゆきます。
ちょっと音がやむ間があって、しばらくするとまたおなじように遠くから近付いてきては、またおおきくなって、消えてゆき。。。
何で遊んどるんや?
窓からのぞけばいいものをなんとな~く見ないまま放ったらかしてしまいました。
ぼくの脳内では、1人が台車に乗っかって1人がそれを押して走る。それで合っていると思うなあ。
だって小さい頃は、荷物を載せたガラガラ動くアレを見たらだれだって最初に「乗りたい……」って思うもんでしょう!
広島に行く途中の写真です。
吉備SAで写真を撮りました。あまりにも、素晴らしいおめめだったもんですから……ポーズはアッパレやたら凛々しい顔つきの桃太郎です。
見つけた瞬間、普段あんまり写真をとりたいと思いませんが思わず「撮ってください!」メンバーに頼みました。
吉備SAで写真を撮りました。あまりにも、素晴らしいおめめだったもんですから……ポーズはアッパレやたら凛々しい顔つきの桃太郎です。
見つけた瞬間、普段あんまり写真をとりたいと思いませんが思わず「撮ってください!」メンバーに頼みました。
おみやげも、なぜかまったく関係のない鳥取の「大風呂敷」なるどうみても信玄餅のパクリっぽいようなおもちを買うという……おいしそうだったからつい……きびだんごも食べた……
帰宅後、もみじまんじゅうやあ~!と思いだしたんでした!ありゃま!
2015年8月8日土曜日
8月6日、8月7日 ぼくはひととしゃべりたくない
8月6日
スノドカフェで働いておられる曽布川さんにお誘いいただき
浜松は鴨江アートセンターにて行われたアートバザールで演奏してきました。
ソロでのお誘いで、アコースティックベースを一つ持っての演奏でした。
浜松は、いつ行ってもそうなのですが、駅前からすでに賑やかです。
ただ移動交通の通りゆく場所ではなくて
何らかのスペースとして色々な方が駅を利用されています。
公的な、おそらく市で開催されたあるいは関わっている大きなイベントも
しょっちゅうやっているし、
お花が売られていたり、動きません、というパフォーマンスの方がじっと立っておられたり、
ギターで弾き語る青年などがいます。
また、イベントや、あるいは何らかの主張のチラシを配布しておられる方も居ます。
それを横目で眺めていく人々も、それらを景色として処理するのではなく
意外に反応していたり、しっかり拒否したりしていて、とても楽しいです。
この日は、帰る頃(夕方五時頃)袋井で開催される花火大会の切符を買うためだけの行列が大変長く伸びており、
とても驚きました。
浴衣姿で かわいくおめかしした少年少女が、ずらりと並んでいる様はなかなか素敵でしたが、切符を買うのに、駅の外まで行列ができるというのは私には見た事のない光景だったため、大変驚きました。
アートバザールは、昔は消防署そして警察署だったという建物、アートセンターという
名前からして素敵なところで行われています。
建物中とても賑やかに飾り付けされており
様々な方が出店をしたり、イベントを開催したりしています。
美味しい食べ物や、或いは野菜なんかも売っていたり、子供たちを募っておもちゃをつくるとか、調味料!を作ってみるスペースや、郷土の資料
或いは参加される方が持ってこられたおもちゃを自由にさわって遊べるスペースで子供達が自由に遊んでいたり。
建物は白塗りの壁がきれいな ワンフロア、ワンフロアの天井が高く気持ちの良い空間で
音がとてもきれいに響いていくところです。
到着してすぐ、その子供達の多さに大変驚きました。
みんなおそらく初対面だろうに、お互い喧嘩したり或いはあえて干渉せずにだったり
同じ空間で自由にその場を楽しんでいます。
近くには親御さんが、また親御さんのペースでアートバザールを楽しんでおられます。
(子供の目を引くものや 楽しいものが多いから、ずっと構わずとも、子供が遊べるのだと思います)
話を変えます。
先日、7月31日、御殿場ノスタルジアでアカシックレコードさんの企画”怪談でナイト”に出演させていただきました。
この日もアコベースを持って、弾き語りをしました。
このノスタルジアにはチャイルドスペースがあって、その日も何人か、出演者さんやお客さんの子供さんがそこで遊んでいました。
そこで、一人の少年がとても気持ちよく床を叩いていて、楽しそうだなあと思った僕はつい適当にベースを一緒に弾いて遊びました。
少年はマイペースに遊んでいたのですが、時間が経った後、床を叩いて、さっきのことをやってください、同じ事をやってくださいと言いました。
僕はさっき何を弾いたかしっかりとは覚えていなくて、焦りながら同じカナ〜と思うようなものを弾いたら、楽しそうに笑って、何度かそれを要求してくれました。
僕はそれがとても楽しかったです。
僕は、子供に大人が何かさせる、というのが、あまり好きではありません。
なぜならば、子供というのはとても聡くて、ずるくて、卑怯で、寂しくて、愛しい生き物のため、大人の要求を”読む”ことに必死になって、それへ応えるか、それを否定してやるかのどちらかに頭をフル回転させるからです。あるいは、興味のないまま、”おこさま”を大人のために優しさでやってくれたりします。
違いますか?僕の子供時代がひねくれていただけでしょうか?でも今でも子供と大人の図を見ていると多分そうだろうと思ったりします。
だから、自分はその子と一緒に何かやってみたかったけれど、それが強制になる気がして怖かったのですが、不思議とその子は「この少年はマイペースを崩さず、自分の好きなように反応してくれるだろうな〜多分嫌なら、やめてよって言ってくれるだろうな〜」と思わせてくれる素敵さがあったため、つい、調子にのったのでした。
その結果が、少なくとも彼を何か制限したり コントロールしたりしてしまうものではなくて、背景かあるいは刺激として、多分それが悪くないものかなあと思われる結果で 僕は、結構な楽しさを、”僕が”感じました。
なかなかひねくれているので、偽善的かなーと帰宅の電車後も思いましたが、自分はなぜパーカスを持ってこなかったのかなーと悩むほど、楽しい時間でした。
話を戻します。
何かを行うことが楽しい、とは一体何かと考えます。
あるいは何かをやってみたい、と考えてから、それを行動に移すことと移さないことの差とは何かと考えます。
(評価などといったものではなく)成功体験がなくても、人は何かを行い続け、楽しいと思いつづけることができるのかどうか、と考えます。
アートバザールについて最初に思ったのはそれでした。
自分からおもちゃを楽しそうに触る子と、そうでない子の違いはなんだろうと考えます。
引っ込み思案、人見知り、お調子者、お姫様気質、その差はなんだろうと思います。
単なる生まれつきや、一人っ子であるとか、兄弟がいるとか、そのようなことだと思います。
でも、たまに、多分、自尊心がそれらに関わっている、と考えることがあります。
僕は小さいころは、どんなおもちゃも奪い取り、前にそのおもちゃで遊んでいた子を苛め抜き、泣き叫びわがままに一人で遊ぶ子でした。3歳とか4歳とか 少し大きくなってからは、友達の取り合いもするようになりました。
自分のものではないということや、自分がコントロールできない、ということに異常に執着する子でした。引っ込み思案ではまったくなかったと思います。
少し大きくなると、無気力とも言える引っ込み思案に変質しました。じーっと影のように教室に座り、ぼーっと窓を見ていたり落書きをしていたり、そのような子でした。
「何かをやってみましょう」で、たとえやってみたいと思っても、手をあげたりしたことはありません。おもちゃのあるスペースで、遊んでみたいと思っても、そのおもちゃを手に取ることはなかったと思います。
親はそれを心配してか、あれをやってみたらこれをやってみたらと、結構色々やらせようとしたように思います。一つもダメだったと記憶しています。
そんななかで、一つだけ、絵だけは勝手に自主的に描いていたので 絵を描けと言われたことはありませんでした。
小学校に入る前とか、入ったころとかそれくらいのとき
描いた絵を、父が、一度 すばらしい絵だ 額にいれて飾ろうといって飾ったことがあります。
妹と母と父とわたしの絵だったと思います。ひまわりが四つならんで顔がついているのです。それだけです。
わたしはその後、絵を描くことが大好きになりました。
鴨江アートバザールで最初に目に付いたのは、音の出る楽器で遊ぶ少年少女でした。
その時は小林直樹くんが演奏をしていたのですが、彼の演奏にお構いなく、
たいこや 音の出る笛を自由にならしたり
かと思えば遠慮がちに弾いたり
僕はなんだかそれがとても楽しそうに見えました。
とても本質的に自由であるように見えました。
7月31日のことを思い出しました。
音楽は、他の創作と少し違う楽しさが一つあります。
「本質的に自由」であることが、とても重たく価値を持つ瞬間があります。
逆に、コントロールされ、作りこまれたものもすばらしいです。
でも、全く何も自由に好き勝手にやっても、楽しいものがあります。
それは、音楽それそのものが、特殊な会話的要素を持つからだと思います。
すべての創作は、芸術、というよりは、言語に近いのかもしれない、と思います。
「絵をつかった論文」「音楽をつかった議論」「文字をつかった映像」「音楽をつかった遊び」「絵をつかった主張」があります。
「絵」「音楽」「文字」これら”そのもの”は、そのままでは芸術ではありませんし、創作でもないのではないかと思うのです。
そしてこのなかで、音楽は複数人の会話や議論や創作をしあった「結果」が、また一つの創作になるという二重性が、とても強いです。
それは、絵や文字が「一人が出して完結して、それがやりとりされて会話や議論になり、あるいは表現になる」という点と大きく異なることです。
音は出た瞬間から空気に溶けてきえていきます。その刹那性の持つ特殊さだと思います。
だから、会話の要素が、とても大きい気がします。もちろん、だからこそ、、、、その会話を、一人きりでやるのも、逆にとても面白く聞こえます。
とりあえずは息をして、生活をしている限り、社会つまり他者とのつながりというのは必ずうまれてきます。そしてだいたい、いまのじだいの人間さんは、たぶんだいたい言語をつかってコミュニケーションするわけですが、ぼくはこの、言語を使用するということが本当に本当に苦手です。言いたいことはうまく言えず、言うつもりのなかったことを言って無意味に傷つけたりの連続です。
人とのコミュニケーションや世界とのコミュニケーションに置いて、自分のダメさにしょっちゅう失望している僕にとって、
また先述の、大好きだった絵さえ投げ出してしまった何もできない僕が、唯一音楽だけ楽しくやっているのは、
どんなに失敗しても、、楽しく死ぬまでやるだろうなあと思っているのは、それが単なる言語であるからです。間違えても、最悪つまらなくはなっても、だれもかなしくて泣かない言語だからです。
お話することができる、幸せがあるからです。
スノドカフェで働いておられる曽布川さんにお誘いいただき
浜松は鴨江アートセンターにて行われたアートバザールで演奏してきました。
ソロでのお誘いで、アコースティックベースを一つ持っての演奏でした。
浜松は、いつ行ってもそうなのですが、駅前からすでに賑やかです。
ただ移動交通の通りゆく場所ではなくて
何らかのスペースとして色々な方が駅を利用されています。
公的な、おそらく市で開催されたあるいは関わっている大きなイベントも
しょっちゅうやっているし、
お花が売られていたり、動きません、というパフォーマンスの方がじっと立っておられたり、
ギターで弾き語る青年などがいます。
また、イベントや、あるいは何らかの主張のチラシを配布しておられる方も居ます。
それを横目で眺めていく人々も、それらを景色として処理するのではなく
意外に反応していたり、しっかり拒否したりしていて、とても楽しいです。
この日は、帰る頃(夕方五時頃)袋井で開催される花火大会の切符を買うためだけの行列が大変長く伸びており、
とても驚きました。
浴衣姿で かわいくおめかしした少年少女が、ずらりと並んでいる様はなかなか素敵でしたが、切符を買うのに、駅の外まで行列ができるというのは私には見た事のない光景だったため、大変驚きました。
アートバザールは、昔は消防署そして警察署だったという建物、アートセンターという
名前からして素敵なところで行われています。
建物中とても賑やかに飾り付けされており
様々な方が出店をしたり、イベントを開催したりしています。
美味しい食べ物や、或いは野菜なんかも売っていたり、子供たちを募っておもちゃをつくるとか、調味料!を作ってみるスペースや、郷土の資料
或いは参加される方が持ってこられたおもちゃを自由にさわって遊べるスペースで子供達が自由に遊んでいたり。
建物は白塗りの壁がきれいな ワンフロア、ワンフロアの天井が高く気持ちの良い空間で
音がとてもきれいに響いていくところです。
到着してすぐ、その子供達の多さに大変驚きました。
みんなおそらく初対面だろうに、お互い喧嘩したり或いはあえて干渉せずにだったり
同じ空間で自由にその場を楽しんでいます。
近くには親御さんが、また親御さんのペースでアートバザールを楽しんでおられます。
(子供の目を引くものや 楽しいものが多いから、ずっと構わずとも、子供が遊べるのだと思います)
話を変えます。
先日、7月31日、御殿場ノスタルジアでアカシックレコードさんの企画”怪談でナイト”に出演させていただきました。
この日もアコベースを持って、弾き語りをしました。
このノスタルジアにはチャイルドスペースがあって、その日も何人か、出演者さんやお客さんの子供さんがそこで遊んでいました。
そこで、一人の少年がとても気持ちよく床を叩いていて、楽しそうだなあと思った僕はつい適当にベースを一緒に弾いて遊びました。
少年はマイペースに遊んでいたのですが、時間が経った後、床を叩いて、さっきのことをやってください、同じ事をやってくださいと言いました。
僕はさっき何を弾いたかしっかりとは覚えていなくて、焦りながら同じカナ〜と思うようなものを弾いたら、楽しそうに笑って、何度かそれを要求してくれました。
僕はそれがとても楽しかったです。
僕は、子供に大人が何かさせる、というのが、あまり好きではありません。
なぜならば、子供というのはとても聡くて、ずるくて、卑怯で、寂しくて、愛しい生き物のため、大人の要求を”読む”ことに必死になって、それへ応えるか、それを否定してやるかのどちらかに頭をフル回転させるからです。あるいは、興味のないまま、”おこさま”を大人のために優しさでやってくれたりします。
違いますか?僕の子供時代がひねくれていただけでしょうか?でも今でも子供と大人の図を見ていると多分そうだろうと思ったりします。
だから、自分はその子と一緒に何かやってみたかったけれど、それが強制になる気がして怖かったのですが、不思議とその子は「この少年はマイペースを崩さず、自分の好きなように反応してくれるだろうな〜多分嫌なら、やめてよって言ってくれるだろうな〜」と思わせてくれる素敵さがあったため、つい、調子にのったのでした。
その結果が、少なくとも彼を何か制限したり コントロールしたりしてしまうものではなくて、背景かあるいは刺激として、多分それが悪くないものかなあと思われる結果で 僕は、結構な楽しさを、”僕が”感じました。
なかなかひねくれているので、偽善的かなーと帰宅の電車後も思いましたが、自分はなぜパーカスを持ってこなかったのかなーと悩むほど、楽しい時間でした。
話を戻します。
何かを行うことが楽しい、とは一体何かと考えます。
あるいは何かをやってみたい、と考えてから、それを行動に移すことと移さないことの差とは何かと考えます。
(評価などといったものではなく)成功体験がなくても、人は何かを行い続け、楽しいと思いつづけることができるのかどうか、と考えます。
アートバザールについて最初に思ったのはそれでした。
自分からおもちゃを楽しそうに触る子と、そうでない子の違いはなんだろうと考えます。
引っ込み思案、人見知り、お調子者、お姫様気質、その差はなんだろうと思います。
単なる生まれつきや、一人っ子であるとか、兄弟がいるとか、そのようなことだと思います。
でも、たまに、多分、自尊心がそれらに関わっている、と考えることがあります。
僕は小さいころは、どんなおもちゃも奪い取り、前にそのおもちゃで遊んでいた子を苛め抜き、泣き叫びわがままに一人で遊ぶ子でした。3歳とか4歳とか 少し大きくなってからは、友達の取り合いもするようになりました。
自分のものではないということや、自分がコントロールできない、ということに異常に執着する子でした。引っ込み思案ではまったくなかったと思います。
少し大きくなると、無気力とも言える引っ込み思案に変質しました。じーっと影のように教室に座り、ぼーっと窓を見ていたり落書きをしていたり、そのような子でした。
「何かをやってみましょう」で、たとえやってみたいと思っても、手をあげたりしたことはありません。おもちゃのあるスペースで、遊んでみたいと思っても、そのおもちゃを手に取ることはなかったと思います。
親はそれを心配してか、あれをやってみたらこれをやってみたらと、結構色々やらせようとしたように思います。一つもダメだったと記憶しています。
そんななかで、一つだけ、絵だけは勝手に自主的に描いていたので 絵を描けと言われたことはありませんでした。
小学校に入る前とか、入ったころとかそれくらいのとき
描いた絵を、父が、一度 すばらしい絵だ 額にいれて飾ろうといって飾ったことがあります。
妹と母と父とわたしの絵だったと思います。ひまわりが四つならんで顔がついているのです。それだけです。
わたしはその後、絵を描くことが大好きになりました。
鴨江アートバザールで最初に目に付いたのは、音の出る楽器で遊ぶ少年少女でした。
その時は小林直樹くんが演奏をしていたのですが、彼の演奏にお構いなく、
たいこや 音の出る笛を自由にならしたり
かと思えば遠慮がちに弾いたり
僕はなんだかそれがとても楽しそうに見えました。
とても本質的に自由であるように見えました。
7月31日のことを思い出しました。
音楽は、他の創作と少し違う楽しさが一つあります。
「本質的に自由」であることが、とても重たく価値を持つ瞬間があります。
逆に、コントロールされ、作りこまれたものもすばらしいです。
でも、全く何も自由に好き勝手にやっても、楽しいものがあります。
それは、音楽それそのものが、特殊な会話的要素を持つからだと思います。
すべての創作は、芸術、というよりは、言語に近いのかもしれない、と思います。
「絵をつかった論文」「音楽をつかった議論」「文字をつかった映像」「音楽をつかった遊び」「絵をつかった主張」があります。
「絵」「音楽」「文字」これら”そのもの”は、そのままでは芸術ではありませんし、創作でもないのではないかと思うのです。
そしてこのなかで、音楽は複数人の会話や議論や創作をしあった「結果」が、また一つの創作になるという二重性が、とても強いです。
それは、絵や文字が「一人が出して完結して、それがやりとりされて会話や議論になり、あるいは表現になる」という点と大きく異なることです。
音は出た瞬間から空気に溶けてきえていきます。その刹那性の持つ特殊さだと思います。
だから、会話の要素が、とても大きい気がします。もちろん、だからこそ、、、、その会話を、一人きりでやるのも、逆にとても面白く聞こえます。
とりあえずは息をして、生活をしている限り、社会つまり他者とのつながりというのは必ずうまれてきます。そしてだいたい、いまのじだいの人間さんは、たぶんだいたい言語をつかってコミュニケーションするわけですが、ぼくはこの、言語を使用するということが本当に本当に苦手です。言いたいことはうまく言えず、言うつもりのなかったことを言って無意味に傷つけたりの連続です。
人とのコミュニケーションや世界とのコミュニケーションに置いて、自分のダメさにしょっちゅう失望している僕にとって、
また先述の、大好きだった絵さえ投げ出してしまった何もできない僕が、唯一音楽だけ楽しくやっているのは、
どんなに失敗しても、、楽しく死ぬまでやるだろうなあと思っているのは、それが単なる言語であるからです。間違えても、最悪つまらなくはなっても、だれもかなしくて泣かない言語だからです。
お話することができる、幸せがあるからです。
2015年7月16日木曜日
2015年6月17日水曜日
玉ねぎの心をむきつづけて、何もなくなるまで!
*6月5日記載(下書きのまんますっかり更新を忘れていました)
誰かと話していて「わたし数学が好きです」と言ってもよいであろう人というのは、計算が早い人じゃなくて、公式をつぎつぎに考え続けている人ではないのかしら。という話をしていたら、誰かの本にも同じことを言っている人がいて、ホッとしたりするくらいには、細胞の存在意義を疑っています。
かといって、逆のことが書いてあったからといって、アポトーシスが発動するわけではないのですが……(((*^0^*)))
ホリエモンがどこかで「情報に価値はない」と言っていました。情報に価値がないことは感受性や想像や解釈や経験の優位性を持たせてくれます。もっと情報は価値が無くなるべきです。素晴らしいことです。
先日はカマチさんのところにお邪魔しました。水のさんと偶然お会い出来て、水のさんの倉庫を見せていただきました。なんとも摩訶不思議かつ個性的な空間で、そこにあふれる一貫した愛にとてもあたたかさをかんじました。おいて合ったものは、半分ほどは卑猥で、もう半分ほどは神聖すぎるもので、とても日常生活にあれだけの数、置かれていることは無いと思います。
「愛しているものの空間」って何て素晴らしいのだろう、と思いました。それらの多くは一般的には昔のおにいさんたちの夜のおともであっただろうもので、一見ふつうの姿をした和風人形、それを持ち上げて下からのぞき見ますと、女性の恥部が詳細に表現されているというもので、その素朴さや生々しさと、「行動しなければ見えない」奥ゆかしさはたいへん素敵に感じました。
たかだかちょっとニュースを開いただけでまったくお呼びでないというのに平気でぼくらの視界を占領する様々な性的な広告がはびこるいまをいささか残念に思いました。
カマチさんとも恥ずかしながらたくさんお話をしてというか聴いていただいて刺激的でした。やさしさ!
正しさのゆうれいはいつも僕へすり抜けたりおいぬいたりして、僕が飛ぶことのできない窓辺から平気で飛び立ってしまいますが、ぼくはそれを追いかけて飛び降りたいわけではないのだと考えることが出来ました。
ぼくたちのこころはいつでも玉ねぎと成っています。欲望や願いや希望というこころのうちにある様々は、外部の空気による酸化を防いだり、傷をふせいだりするために、中心の欲望に沿って、いつだって何重にも重なっています。
たったひとつの想いでさえ、本当にそれが中心の思いなのかどうかは疑わしいものです。
大事なことは、玉ねぎをむいてむいてむきつづけることだと気をつけて生きていきたいです。
いつだってわかってはいるんだけれど、中心の芽ではなくて、そとの皮ばかり拾ってしまうのです。でもそれは真実ではないのだ。
今日も生きて明日も僕は生きたいと思いますが、それに必要なことは、玉ねぎの中の「ほんとう」、「ほんとうにおもうこと」をひたすらに探し続けることと、ぼくはぼくの細胞にだけ決めて、それを食べたいと考えます。
しかし、今思いました。”ほんとう”はいつだってうつろいかわります。ほんとうは、嘘ではありませんが、過去になることはありえます。
毎回毎回たまねぎをめくりつづけることをおこなってからほんとうをさがしていると、時と場合によって、過去の”ほんとう”をだきしめてしまうこともあります。
そうしたら、たまねぎが成長するまえに胃の中へいれることも大事ではないかしら??
過去のほんとうは、嘘ではないけれど、ほんとう、ではありません。
けれど、過去のほんとうは、いまのほんとうへつながっているから、やはりどちらでもよいかなとも思ったりします。
だいじなことは、どういうお洋服を着てどういう靴でいるとあの光が流れ落ちてくる竹やぶの中で座るとき気持ちが良いのかしら、ということなのかもしれません。
そういえばお寺に行く機会がありました。そこは「そとのせかい」よりもあまりに優しすぎるというか、意地の悪さというようなものが存在しない世界でそれは心地よい世界でしたが、や、そもそも、そとのせかいだとおもっているものは、ぼくの思い込みなのだと反省することができました。
ぼくはたまに、こんなに意地悪くならなくてもいいのじゃないないかしらと、自分や、自分を取り巻く世界を見ていて思います。
これはインターネット世界に慣れてしまったぼくたちの哀しさなのでしょうか、ぼくたちはいつだって、意地の悪い受け取り方をすることにずいぶんと慣れている気がします。
そうしていつしか、発する時も、意地の悪さを想定するようになってしまっています。
その循環が生み出す世界は、ぼくはあまり幸福なイメージを持つことができません、みなさんはかがですか。
さんざん意地の悪さを露呈しておいてそれはないんじゃないか、といわれても、気分よく朝目がさめて、自転車で数十分ばかし走って帰ってこれた日くらいは、まる一日誰へも意地の悪さを向けない日があってもよいのではないかなあ、翌日になったら、自分のくだらない自尊心が傷ついたことを流せないで、一日当たり散らす程度の弱さがどうせあるのだし。
お寺の話に戻ります。3泊させていただいたお寺には、本堂の裏手、少し山をのぼったところに宿泊用のログハウスがあり、中へ入ると机といすが4つほど、さほど広くない6畳くらいの空間の壁3面にずらりと本棚が並べられ、本棚の中にはたくさんの本が置かれています。
どんな本があるのかしらと眺めてみますと、やはり臨済宗についてですとか、仏教についての本が多く置かれています。また、精神世界の本ですとか、そういったものもやはり多い印象です。なぜかバガボンドなんていう漫画も置いてあったりなどして、バリエーションはかたよりつつも豊かです。
そのなかに一冊だけ宮沢賢治の本がありまして、ふと思い立って裏の森をせっせとのぼって、少しひらけたところで腰掛けて、1人で音読なんていうことを行いました。ずうーっとやってみたいなあと思いながらも、誰かに聞かれたら飛び上がるほど恥ずかしいと、機会と環境を得られず行っていなかったことです。
時間帯はお昼を過ぎて、太陽は真上から少しかたむいたころで、右手の竹やぶはちょうど山をくだってゆく斜面となっていて、太陽の光もやんわりと入りこんできます。
そちらから入ってきたきらきらは、左側ののぼってゆく斜面へと吸い込まれて、みどりもあんまり見えない茶色い影へと変わってゆきます。その間のところどころ石で階段なんかが丁寧につくってある様子の、けれども頻繁に使われていないからか落ち葉だらけの道を、ぼくは運動音痴なのでサンダルでちょこちょこすべったりして、せっせとゆきました。一足ふむたびに思ったよりも落ち葉が沈んで、どこからか静かに休んでいたか獲物をまっていたかどちらかの蚊が、ブワ!と喜んで僕のほうに来ます。まあ、文明の機器、機器じゃないけども、虫よけスプレーなる(50歩で消えない)アイテムを装着済みですから、幸いほとんど噛まれていません。
そうして登っていくと、「これより先はイノシシが出るため、行き来の際、網をきちんと締めてください」などという看板のある門のところまでつきました。そこは切り株をまわるように右手に引き返して降りて行くような別の道が続いていて(あるいは、上ってくる別の道ともいうのかしら)、現代人的癖が抜けない僕は切り株の一番スミの、虫も土も草もなさそうな一番きれいそうなところにぎりぎりに腰掛けて遊びました。
そのあたり、どかーっとすわったり寝転んだりなんていうワイルドなことが出来ない自分がなんともみみっちく感じます!
ま、これを静岡に帰ってもたびたびやれたら、そのうちなんかいいことがあるんだろうなあとおもったけど、とてもやる気にはなりません。けっこうな山だらけの地域なのですが。。
やっぱり、環境が新鮮というのは何かを行うのに最適な条件の一つなのでしょうね!
誰かと話していて「わたし数学が好きです」と言ってもよいであろう人というのは、計算が早い人じゃなくて、公式をつぎつぎに考え続けている人ではないのかしら。という話をしていたら、誰かの本にも同じことを言っている人がいて、ホッとしたりするくらいには、細胞の存在意義を疑っています。
かといって、逆のことが書いてあったからといって、アポトーシスが発動するわけではないのですが……(((*^0^*)))
ホリエモンがどこかで「情報に価値はない」と言っていました。情報に価値がないことは感受性や想像や解釈や経験の優位性を持たせてくれます。もっと情報は価値が無くなるべきです。素晴らしいことです。
先日はカマチさんのところにお邪魔しました。水のさんと偶然お会い出来て、水のさんの倉庫を見せていただきました。なんとも摩訶不思議かつ個性的な空間で、そこにあふれる一貫した愛にとてもあたたかさをかんじました。おいて合ったものは、半分ほどは卑猥で、もう半分ほどは神聖すぎるもので、とても日常生活にあれだけの数、置かれていることは無いと思います。
「愛しているものの空間」って何て素晴らしいのだろう、と思いました。それらの多くは一般的には昔のおにいさんたちの夜のおともであっただろうもので、一見ふつうの姿をした和風人形、それを持ち上げて下からのぞき見ますと、女性の恥部が詳細に表現されているというもので、その素朴さや生々しさと、「行動しなければ見えない」奥ゆかしさはたいへん素敵に感じました。
たかだかちょっとニュースを開いただけでまったくお呼びでないというのに平気でぼくらの視界を占領する様々な性的な広告がはびこるいまをいささか残念に思いました。
カマチさんとも恥ずかしながらたくさんお話をしてというか聴いていただいて刺激的でした。やさしさ!
正しさのゆうれいはいつも僕へすり抜けたりおいぬいたりして、僕が飛ぶことのできない窓辺から平気で飛び立ってしまいますが、ぼくはそれを追いかけて飛び降りたいわけではないのだと考えることが出来ました。
ぼくたちのこころはいつでも玉ねぎと成っています。欲望や願いや希望というこころのうちにある様々は、外部の空気による酸化を防いだり、傷をふせいだりするために、中心の欲望に沿って、いつだって何重にも重なっています。
たったひとつの想いでさえ、本当にそれが中心の思いなのかどうかは疑わしいものです。
大事なことは、玉ねぎをむいてむいてむきつづけることだと気をつけて生きていきたいです。
いつだってわかってはいるんだけれど、中心の芽ではなくて、そとの皮ばかり拾ってしまうのです。でもそれは真実ではないのだ。
今日も生きて明日も僕は生きたいと思いますが、それに必要なことは、玉ねぎの中の「ほんとう」、「ほんとうにおもうこと」をひたすらに探し続けることと、ぼくはぼくの細胞にだけ決めて、それを食べたいと考えます。
しかし、今思いました。”ほんとう”はいつだってうつろいかわります。ほんとうは、嘘ではありませんが、過去になることはありえます。
毎回毎回たまねぎをめくりつづけることをおこなってからほんとうをさがしていると、時と場合によって、過去の”ほんとう”をだきしめてしまうこともあります。
そうしたら、たまねぎが成長するまえに胃の中へいれることも大事ではないかしら??
過去のほんとうは、嘘ではないけれど、ほんとう、ではありません。
けれど、過去のほんとうは、いまのほんとうへつながっているから、やはりどちらでもよいかなとも思ったりします。
だいじなことは、どういうお洋服を着てどういう靴でいるとあの光が流れ落ちてくる竹やぶの中で座るとき気持ちが良いのかしら、ということなのかもしれません。
そういえばお寺に行く機会がありました。そこは「そとのせかい」よりもあまりに優しすぎるというか、意地の悪さというようなものが存在しない世界でそれは心地よい世界でしたが、や、そもそも、そとのせかいだとおもっているものは、ぼくの思い込みなのだと反省することができました。
ぼくはたまに、こんなに意地悪くならなくてもいいのじゃないないかしらと、自分や、自分を取り巻く世界を見ていて思います。
これはインターネット世界に慣れてしまったぼくたちの哀しさなのでしょうか、ぼくたちはいつだって、意地の悪い受け取り方をすることにずいぶんと慣れている気がします。
そうしていつしか、発する時も、意地の悪さを想定するようになってしまっています。
その循環が生み出す世界は、ぼくはあまり幸福なイメージを持つことができません、みなさんはかがですか。
さんざん意地の悪さを露呈しておいてそれはないんじゃないか、といわれても、気分よく朝目がさめて、自転車で数十分ばかし走って帰ってこれた日くらいは、まる一日誰へも意地の悪さを向けない日があってもよいのではないかなあ、翌日になったら、自分のくだらない自尊心が傷ついたことを流せないで、一日当たり散らす程度の弱さがどうせあるのだし。
お寺の話に戻ります。3泊させていただいたお寺には、本堂の裏手、少し山をのぼったところに宿泊用のログハウスがあり、中へ入ると机といすが4つほど、さほど広くない6畳くらいの空間の壁3面にずらりと本棚が並べられ、本棚の中にはたくさんの本が置かれています。
どんな本があるのかしらと眺めてみますと、やはり臨済宗についてですとか、仏教についての本が多く置かれています。また、精神世界の本ですとか、そういったものもやはり多い印象です。なぜかバガボンドなんていう漫画も置いてあったりなどして、バリエーションはかたよりつつも豊かです。
そのなかに一冊だけ宮沢賢治の本がありまして、ふと思い立って裏の森をせっせとのぼって、少しひらけたところで腰掛けて、1人で音読なんていうことを行いました。ずうーっとやってみたいなあと思いながらも、誰かに聞かれたら飛び上がるほど恥ずかしいと、機会と環境を得られず行っていなかったことです。
時間帯はお昼を過ぎて、太陽は真上から少しかたむいたころで、右手の竹やぶはちょうど山をくだってゆく斜面となっていて、太陽の光もやんわりと入りこんできます。
そちらから入ってきたきらきらは、左側ののぼってゆく斜面へと吸い込まれて、みどりもあんまり見えない茶色い影へと変わってゆきます。その間のところどころ石で階段なんかが丁寧につくってある様子の、けれども頻繁に使われていないからか落ち葉だらけの道を、ぼくは運動音痴なのでサンダルでちょこちょこすべったりして、せっせとゆきました。一足ふむたびに思ったよりも落ち葉が沈んで、どこからか静かに休んでいたか獲物をまっていたかどちらかの蚊が、ブワ!と喜んで僕のほうに来ます。まあ、文明の機器、機器じゃないけども、虫よけスプレーなる(50歩で消えない)アイテムを装着済みですから、幸いほとんど噛まれていません。
そうして登っていくと、「これより先はイノシシが出るため、行き来の際、網をきちんと締めてください」などという看板のある門のところまでつきました。そこは切り株をまわるように右手に引き返して降りて行くような別の道が続いていて(あるいは、上ってくる別の道ともいうのかしら)、現代人的癖が抜けない僕は切り株の一番スミの、虫も土も草もなさそうな一番きれいそうなところにぎりぎりに腰掛けて遊びました。
そのあたり、どかーっとすわったり寝転んだりなんていうワイルドなことが出来ない自分がなんともみみっちく感じます!
ま、これを静岡に帰ってもたびたびやれたら、そのうちなんかいいことがあるんだろうなあとおもったけど、とてもやる気にはなりません。けっこうな山だらけの地域なのですが。。
やっぱり、環境が新鮮というのは何かを行うのに最適な条件の一つなのでしょうね!
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